球体通信

Around Forty gay on the Kyushu Island

待つことと許すこと🍲アナログなバイトで気付かされたこと。

 昨年末から空き時間に飲食系のバイトを始めた。

 

飲食系といっても接客するわけではなく裏方のバイト。

 

始めた理由は、今後の厳しい時代に備えるためと新しい何かに触れたかったから。

 

でも、変な職場だったらすぐやめようと思っていた。

 

結果的には変な職場だけれど、まだ続けられている。それはなぜか自分なりに考えてみた。

 

  • 驚くほどアナログな職場

今まで僕が触れてきたのは主に工業系の職場。

 

そこでは無駄という無駄は排除されていた。

 

しかし、そのバイト先はカルチャーショックなぐらい無駄が溢れている。

 

そこまで人の手でやるかということも多いし

 

毎日アレがないとかコレがないとか発注ミスがあったとかないとか

 

そんな低次元な話が繰り返されていて今までどうやって来たんやと話を聞いてるだけで面白い。

 

ある意味それが許されてきたというのは本当に僕にとっては驚きだが、そこではそれで世界が回ってきたということなのだ。

 

  • そこにあったのは待つことと許すこと

お客さんに出すものの前段階の仕込みのような仕事がメインのその職場。

 

まぁ一応料理というカテゴリーにはなると思うけれど、ろくに包丁も持ったことのない僕にとってはどれも新鮮な体験。

 

具材を半分に切るだけでもできるじゃん!と自分のなかで小さな自信になっている。

 

職場の他の人は既婚のパート女性陣が多くチャキチャキ動いて男性陣は力仕事で割りとスピードはゆっくりな感じ。

 

発達障害かな?っていうぐらい話が通じない同僚のおじさんも最初は無理だと思ったけど、

 

悪い人じゃないのは伝わるし僕自身その気があるからなのか今では妙に職場に安心感がある。

 

おじさんがやらかした時ももちろん注意はされるけど、割りと簡単に許される雰囲気。

 

それも良くも悪くも新鮮なことかな。

 

あと料理っていうのは時短ができない部分もあるというのも新鮮な発見。

 

だから待つという作業が必ず生まれてそれが忙しいながらも妙に懐の深い職場の雰囲気に繋がっているのかもしれない。

 

  • 無駄は本当に無駄だったのか

田舎のどんな小さな工場にもトヨタ式のカイゼン的要素が入っていたしそれが普通だと思ってきた。

 

そういう環境で長年過ごす中で僕も自然に無駄のない人間になっていたのかもしれない。

 

人間という生き物が働いてるという感覚が薄くなっていたというかなんというか。

 

大規模な食品工場ならまたちょっと話は変わってくるのだろうけど、規模的にもいい感じで人と人が交われているのが単純に嬉しかったのかもしれない。

 

そこに働くのが人間である以上、待つことと許すことがある程度担保されることは大事なことなんだと気付かされた。

 

まぁヤバイところもいっぱいある所なんだけどね。いいところもあるから続いてるんだろうな。