地下鉄に乗れば5分で博多、10分で天神と異常に交通の便の良い福岡空港。
対して隣県である大分県には異常に交通の便が悪い空港、大分空港がある。
県庁所在地である大分市までは直線距離で約30キロも離れた場所にあり、
鉄道はなく高速道利用で1時間、一般道利用で1時間半かかったりと温泉観光県にしては酷すぎるアクセス。
1時間半。。。東京から来た観光客がまた東京に帰れてしまう時間。。。
なぜここまで田舎でありながらさらに田舎の国東半島に空港を作ることになったのか。
そもそもの原因は1964年の富士航空機墜落事故が発端となっている。
当時、大分市の中心部付近にあった大分空港でオーバーランにより死者20名を出す事故が発生。
川に挟まれた短すぎる滑走路が事故原因とされ以前から問題となっていたようだ。
中日映画社のYouTubeチャンネルにサンプルではあるが、当時の貴重なニュース映像が。
動画の最後でも短い滑走路の件は触れられている。
時期的には成田空港を巡る成田闘争が起きていたのと同時期の話。
日本全国で新たな空港の建設が計られており、
大分でも長い滑走路を持つ広大な空港への移転が模索されることになる。
なぜ国東に?というのは僕自身の長年の疑問でもあったが、興味深いページを見つけた。
それは国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築している調べ物のためのデータベース、レファレンス協同データベースというサイト。
当時の新聞などの資料から調べ物を手助けしてくれる便利なサイトのようだ。
今回のお題にぴったりの質問が。
『旧大分空港が国東に移転した経緯がわかる資料はあるか。当時大分市大在地区や東部郊外に移転する計画もあったと聞いたことがあるが、なぜ国東に移転したのか知りたい。』
ここからわかるのは
・当初、現空港所在地の国東より大幅に中心部に近い空港候補地が検討されていたこと。
・それは大分市大在地区・日出町大神地区でありそのどちらからも地元住民の反対運動
があったこと。
・安全性を考慮して現空港所在地の国東へと決定されたが、当時から中心部から遠すぎるとの指摘はあったこと。
大在地区で空港の反対運動が昔あったというのは聞いたことはあった。
どちらの地区も訪れたことはあるけれど、なだらかな丘陵地で空港候補地への選定は納得できると感じたし、
どちらも少ないながらも住民はおり農業など住民の生活が根付いてきた土地だろうから反対運動が起こったのも理解できる。
でも、だからと言って中心部から1時間以上かかる国東半島まで移転してしまうものなのか。
ここからは資料によるものではなく地元で言われていることである。
それは当時の自民党の大物議員が地元への誘致をしたというもの。
その議員は地元の国東半島の先に浮かぶ島、姫島出身の西村英一氏。
あの田中角栄の田中派の初代会長だったというのだからどれだけの大物だったかは推して知るべしだろう。
バブルの頃にはすで亡くなっているのでそれほどの自民党の大物議員が大分にいたということすら正直僕は知らなかった。
かくして田舎の田舎に移転された現在の大分空港。
土地はいくらでもありそうだが、結局埋め立てて海上空港になるというよくわからないことになっている。
アクセスもやっと接続バイパスの4車線化が進んでいるという残念な状況。
が、しかし。近年新たな動きが。
突如打ち上げられた大分空港・宇宙港プロジェクトに絡めて
ホーバークラフトによる大分空港への航路が来年度には復活するようだ。
2009年に一度は採算が合わないと廃止された国内唯一のホーバークラフト航路。
景気が良くなったわけでもないのになぜ再開?とは思うものの、
大分と国東を最短25分で結ぶことになるので大分空港とのアクセスは飛躍的に向上する。
けれど、異常に遠い空港ができてしまったことに対するコストをさらにコストをかけて回収しているような気がして素直に喜べないのも事実。
なんだか考えれば考えるほどやるせない。
当時の経緯を資料をたくさん読み込み精査しないと本当の本当はわからない。
国東への移転の正確な経緯はそれこそブラックボックスで調べても出てこないことなのかもしれない。
反対運動を利用して力技で持って行ったのではないかというのが個人的に妥当な線だと思う。
様々な事情が絡み合い結果的に現在の土地に造られた大分空港。
宇宙港になろうとホーバーが戻ろうとそもそもなぜ?というところに立ち返らなければ未来には進めない気がしている。