先日、楽しみにしていたラジオ番組が野球中継延長により大幅に短縮されるということがあった。
まだこんなことがあるんだと驚いたと同時にかつての体験が思い出された。
幼い頃に見ていた90年代のテレビではこういうことがよくあったからだ。
あの時代、人気コンテンツとしての野球中継はゼッタイだった。
その他のドラマやバラエティーなどは本当にゴミのような扱いだった。
よく放送時間が大幅に変更されたり放送が完全に無くなったりもしたものだ。
今の時代、地上波では野球中継延長で他の番組が影響されることは少なくなった。
というより地上波での野球中継自体がほぼないらしい。
昭和から平成にかけてはテレビはメディアの王様であり、
そのテレビのリモコンはお父さんのものだったと思う。
お父さんの見る野球中継は絶対の存在でありお母さんや子供たちの見る
ドラマやバラエティーなどは後回しあるいは無くてもいいもの扱い。
女子供は1週間楽しみにしていたドラマを見ることすら許されなかったのだ。
最終回が野球中継延長に大きく影響を受けてビデオ録画できずに泣いたこともあった。
やり場のない怒り。やり場のない涙。
あれは一体何だったのか。
僕はあれこそがマジョリティの暴力だったのだと思う。
野球を楽しく見ていた大多数は決して想像することのできない痛み。
あれこそがマイノリティの痛みだったのだと思う。
もうテレビはメディアの王様ではないのかもしれない。
メディア環境は大きく変わって比較もできなくなったけれど、
もうあんな暴挙は許される時代ではない。
時代は確実に良くなっている。